れい
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私は昔から #秋元康 がプロデュースする女性アイドルグループに不快感を持っており、彼女らがテレビや広告に映ったり、たまたま入った店でバックグラウンドミュージックとして歌声が聞こえてきたりすると、見てはいけないものを見てしまった、聴いてはいけないものを聴いてしまった気分になっていた。その度に、画面や広告から目を逸らしたり、ヘッドホンを装着したりした。

この「見てはいけないものを目撃してしまった気持ち」というのはどこから来るのだろう?

普段はアーティストに対する批判はあまりしないように心掛けている。芸能活動するアーティストはそれぞれユニークな世界観を放っており、個々のアーティストの世界観を尊重したいと思っている。しかし、アーティストとしてのアイデンティティが薄く、秋元康の単なる操り人形に成り下がっているパフォーマンスについては、率直に書こうと思う。

彼女たちのファンにとって、彼女たちは憧れの的かもしれない。けれども、私とって、彼女たちは秋元康のマスターベーション中の妄想が具現化したものに過ぎない。年配ロリコン男性のマスターベーション中の妄想が、突然目の前のスクリーンに現れたり、妄想の登場人物が話し出したりしたので、「見てはいけないものを!聞いてはいけないものを!」という驚愕的かつ不快な気分になったのだと思う。

たとえ無料でも、ロリコン男性のマスターベーション中の妄想は見たくないし聞きたくもない…。しかし、恐ろしいことに、秋元康はそれを「コンテンツ」と称し販売し大衆に消費させている。AKBなどは、ロリコンエロ動画サイトに「少女たちの成長」ストーリーを組み込み、「少女たちの懸命さ・純粋さ・甘酸っぱさ」といったフレーバーで香りづけしたようなグループだと思う。フロスティングのかわりに粘っこい精液で飾り付けられた、かわいいかわいいケーキのような少女達。

本来は、変質者男性がトイレやベッドなどのプライベートな場所でマスターベーションする時に浸る性的妄想に登場するイメージやストーリーが、スポットライトのど真ん中を浴びてメジャーな場所に置かれ市民権を得ていることが、ロリ化・性化された日本社会の恐ろしさだと思う。秋元康は、決してn=1の存在ではないのだ。秋元康の3S政策 「スクリーン(Screen)上の少女(Shoujyo)の性的客体化(Seiteki Kyakutaika) 」をここまで成功させた変質的イネイブラーと変質的コンスーマーが、日本にはわんさかいる。日本社会の「ロリ変態性」の無限大とも見える底力は軽視できない。


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